時計は間もなく夜中の2時。静まり返った室内に、金の振り子が規則正しい音を響かせる。
ソファに深く体を預け、は全身の力を抜いた。淹れたてのココアの甘い香りを肺いっぱいに吸い込みながら、体ごと伸ばすつもりで両腕をぐっと突き上げる。限界まで伸ばしきってから再び体の力を抜いて息を吐き出せば、溜まった疲れも一緒に出て行くような気がした。
部屋にいるとどうしても書類の束が目に付くので、休憩にはいつもこうして談話室を使うようにしている。幹部がくつろぐためだけに整えられたこの部屋には日々の仕事を連想させるようなものは無く、しかも常に美味しい飲み物やお菓子が揃っていて、屋敷の中で最も居心地がいいのだ。
ルッスーリアはが最近買ってきたこのココアは、さすが彼が気に入ったというだけあって、この屋敷にあるたくさんの高級品の中でも格段に良い味が出た。それを夜中に一人で飲むのは何だか贅沢なことのように思えて、はやや優越感を覚えながら口に含む。こうした精神的な作用も、膨大な量の書類をこれから片付けるためには必要不可欠なものなのだ。
そこへ静かに扉の開く音がした。こんな時間に、と思えるほど常識的な生活は送っていない。誰か任務から帰ってきたのだろうか、そう思いながらは厚みのあるソファ越しに扉の方を振り返った。
「あ」
「・・・いたのか」
現れたのはザンザスだった。開けた扉を閉めようともしない彼は、ソファに陣取っていた先客に驚くこともなく真っ直ぐに壁際のワインセラーへと向かう。180本入りの大きなそれの前に立つと、腕を組んで上のほうからじっと眺め始めた。
「何かお探しですか?」
「別に」
どうやら特に目当てのワインがあるわけではないらしい。それに、彼の好きなワインはすべて彼の私室にあるワインセラーに収まっているはずだ。今夜は少し違うものが飲みたいということだろうか。そういえば、レヴィが珍しいのを買ってきてたような・・・。言いかけただったが、ザンザスを見ればやけに真剣な顔つきで選んでいるので、横から下手に口を挟むのは慎むことにした。
また、部屋には振り子の音だけが響く。ザンザスがいると落ち着かない、などとは外部の人間の言うことだ。少なくともヴァリアー幹部にとってザンザスの存在は大黒柱といえるし、例え機嫌が悪くて容赦なくグラスだのボトルだのを投げつけてくることがあったって、いないよりは遥かに気が楽である。並んだボトルを吟味している横顔を見つめながら、はまた一口、ココアを口にした。
やがてザンザスは1本のボトルを取り出した。他の人間ならこれくらい悩むことも珍しくはないが、彼にしてはずいぶんと時間をかけたものである。またすたすたと扉へ向かう彼に、急いでいる風ではないと判断しては声を掛けてみた。
「いいの見つかりました?」
「・・・まぁな」
ザンザスはソファの横で足を止めると、くるりとボトルを回してラベルをこちらに向けた。それも先日ルッスーリアが買ってきたものである。後で「ボスが気に入ったみたいだった」と報告してあげよう、そう心の中で呟いて、はにこりと笑みを返した。するとザンザスは、ふと何かを見つけたような表情での顔を見た。
「・・・何かついてます?」
目が合っているとは言いがたい。けれど、ザンザスの視線はの目と目の間あたりに注がれている。無言で見つめられるとどうもむず痒い気分になって軽く眉を寄せると、の困惑に気付いたのか、ザンザスはさっと身を翻して開けっ放しだった扉に手を掛けた。
「・・・おい」
「はい?」
「仕事も程々にしろよ」
ばたん、と閉じる扉。その向こうにザンザスの背中が消えていったのを見送って、は首をかしげた。程々にと言われても書類は勝手に押し寄せてくるのだから仕方がない。そんなことを言うなら減らしてくれればいいのだ。・・・しかし、それより気になることが一つある。まるでずっと書類に向かっていたのを知っているかのような口ぶりだった。そして今、ここで休憩をしていたのだと、ザンザスに言っただろうか?
超直感でも働いたのだろうか。さすがはボス。
部屋に戻り、勝手にそう納得して仕事に戻ろうとしたは、デスクの端に置いていた眼鏡に手を伸ばそうとして、はっとしてドレッサーの前に走った。
「これか・・・!」
大きな鏡の前に顔をくっつける勢いで近づける。目と目の間、ザンザスが見ていたのは、そこに薄く残る眼鏡の跡だったのだ。指先で撫でればまだ少し凹んでいた。長時間かけていた証である。
(嫌なとこ見られたなぁ・・・)
とて花も恥らう乙女、男性にはいつだって綺麗な自分を見せていたいものだ。とは言え、この跡があったからこそ、ザンザスから思いもよらぬ優しい言葉を頂けたわけで。
(・・・寝よう)
最初に感じた恥ずかしさはどこへ行ったのか、嬉しさばかりが胸に募る。その中に恋心が芽生え始めているとはまだ気付かずに、はにやけた表情を鏡に映した。