かたかたかた。
ソーサーの上で小刻みに震えるカップとスプーンを、ザンザスは頬杖をつきながら見守る。波のように揺れるコーヒーは今にも零れそうだ。果たしてデスクにたどり着くまで無事だろうか。
媚びる大人たちにうんざりしたからか、それとも分家との会食が嫌だったからか。屋敷を抜け出すことは日常茶飯事だったから、理由など一々覚えていない。あの日はひとけの無い路地を当ても無く歩いていた。どうせ黒服の連中が連れ戻しに来るのだから、賑わう市場だろうが静まり返った路地だろうが、どこにいたって同じことだ。
前から女が歩いてくるのが見えた。近づくにつれて歳はそんなに変わらなさそうだと気づいた。このあたりの娘だろうか。ちらりと少女の顔を伺い見て、磨けば光りそうだなどとぼんやり思った。少なくとも周りにいる派手な女よりは随分いい。
「動かないで!」
「!」
突然少女が叫んだのは二人がすれ違う直前のことだった。目の前ともいえる近い位置で叫ばれてザンザスは本能的に身構える。敵か?今まで殺気など微塵も感じさせなかったが、こう見えて相当の手慣れなのか?ぴんと神経を研ぎ澄まし、相手を探る。しかし少女はザンザスに構うことなく、慌ててその場にしゃがみこんだ。───敵、にしては変だ。
「・・・おい、」
「動かないでください!」
ください、と丁寧になった。先ほどより多少余裕ができたのだろうか。膝をついて四つんばいになった少女は、ぺたぺたと地面に触れ始めた。これはどう見ても敵には、それどころか裏社会の人間にすら見えない。緊張が解けていくにしたがって、少女が一体何をしているのかが気になってきた。
「あの・・・」
「あぁ?」
じっと見下ろしていると少女が顔を上げた。視線が合っているようで若干ずれているのは気のせいだろうか。
「手伝ってもらえませんか?」
「何を」
「コンタクト、落としちゃって・・・」
なるほど、それで視線がずれていたというわけか。少女は相当目が悪いらしい。
「なんで俺がんなことしなきゃならねぇんだ」
残念ながら見ず知らずの人間を助けてやるような思いやりは持ち合わせていない。ザンザスは再び歩き出そうと一歩踏み出した。
「待ってください!」
「うっせぇ」
「もしあなたが踏んで壊したら、弁償してもらいますからね!」
「関係ねぇだろ」
「あります!あなたが踏んだらあなたの責任です!」
「・・・・・・・・・」
少女はじっと恨めしそうな目で見上げてくる。逆恨みだ、とザンザスは思った。だがこうして睨まれても思ったほどイラつかないのは、やはり少女の視線がどこかずれているせいだろうか。迫力が無い。
「・・・フン、そんな目で見つけられるもんなら見つけてみろ」
吐き捨ててザンザスは腕を組んだ。
ぺたぺたぺた。少女の手は地面を這う。黄色いスカートの裾が擦れて汚れていた。むき出しの膝は痛いだろう・・・・・・・・・いや、そんなことはどうでもいい。
無意識に少女を気遣うような思考に走ったことに気付き、ザンザスはかぶりを振る。と、その膝のそばに光るものを見つけた。
「・・・おい、それ」
「ちょっと!見てないで手伝ってくださいよ!」
ザンザスが口を開いたのと、少女が文句を言いながら前に進もうと膝をずらしたのは同時だった。ザンザスは何だか勝ったような気がして、にやりと口元を吊り上げる。
「何か踏んだだろ、今」
「・・・」
自分の足元を見ながら、少女はそっと膝をずらした。そこにはやはり、無残な姿のコンタクトレンズが。
「・・・」
それを手に取り、少女はぺたんと腰を落とした。
「・・・ぶはっ、傑作だな!」
「ひどい・・・!もっと早く言ってくれればよかったのに!」
笑うザンザスを少女は泣きそうな顔で睨む。ますます迫力が無い。そして、ますますザンザスは勝ったような気がした。
「何が俺の責任だ。てめぇで踏んでりゃ世話ねぇな!」
「うるさい!」
可笑しそうに笑うザンザスに、すっかり少女の口調が変わっている。それを気に留めることもなくザンザスはただ笑っていた。・・・車の音が聞こえたのは、そのときだった。
「ザンザス様!」
男の低い声。駆け寄ってくる数人の足音。ザンザスの笑みが消えた。
「・・・早かったな」
「さぁ、戻りましょう」
黒服の男たちはじろりと少女を見遣る。少女が怯えたように身を強張らせたのを感じて、ザンザスは立ち上がり、車の方へと歩き出した。
「・・・あの!」
緊張しているのだろうか、先ほどより少し高い声だった。少女の声に、ザンザスは振り返る。
「あの、・・・また、会えますか?」
「・・・さぁな」
「じゃあ、私、探しますから!」
「探す?俺をか?・・・・・・・・・はっ、てめぇにゃ無理だ」
無理。否定されて少女は口を尖らせた。だが、すぐに何か思いついたように、再び口を開いた。
「だったら探してください!」
「はぁ?」
「私があなたを見つけられないんだったら、あなたが私を探してください!・・・そしたら会えるでしょ?」
少女の瞳が揺れている。ぼやける視界で、何とかザンザスの目を見ようとしているようだった。
「・・・・・・・・・気が向いたらな」
踵を返し、今度こそ車に向かう。
それからも何度も屋敷を抜け出したが、少女に会うことは無かった。
本部に顔を出したら、帰りに買い物を頼んでいいかしら?あえてザンザスに言わずスクアーロに言うあたり、ルッスーリアは危険回避術を身につけている。店に寄らせてくれと申し出たスクアーロを一発殴ったうえで、仕方なくザンザスは市場に来ていた。人の多いところは嫌いだ。もっと人の少ないところ、例えばこんな細い路地の方が・・・・・・・・・。
「・・・」
デジャヴ、ではない。こんな光景を見るのは二度目だ。何気なく視線を向けた路地で四つんばいになっている人影へと、ザンザスは迷いも無く近づいていった。スクアーロの静止など耳に入らない。
「動かないで!」
間近まで近づいてみれば、覚えのある反応が返ってきた。刀を構えようとするスクアーロを片手で制すと、ザンザスは勝手に浮かんできた笑みを押さえきれないまま、女に声をかけた。
「また膝で潰すんじゃねぇのか?」
「・・・!」
一瞬動きを止めた女は、弾かれたように顔を上げた。記憶にあるより顔立ちは大人びているが、驚きに見開かれた目はやはり揺らめいている。
「・・・ザンザス、さん?」
覚えていたことに感心した。しかも名前を聞いたのはたった一度きり、それもきちんと名乗ったわけではないというのに。・・・そういえば、自分はまだ彼女の名前を知らない。
「お前、・・・名は?」
「」
「はいっ」
満足気な返事と同時に、ソーサーがデスクの上に落ち着いた。中身が零れないままここまでたどり着いたのは、彼女がここに来てからの1週間で初めてのことだ。
「初めてまともに出せたな」
「はい!」
「・・・褒めてねぇ」
にこりと嬉しそうに笑ったに呆れた眼差しを向けながら、ザンザスはカップを手に取る。味はいつも合格点だというのに、この新米秘書ときたらこの7日間で色々とやらかしてくれた。昨日などまたコンタクトを、しかもカップの中に落としたと言うので、自ら店に出向いて眼鏡を買い与えてやった。初めは眼鏡なんて耳や鼻が痛くなるからと嫌がっていたが、使ってみれば気に入ったようだ。口にはしないが機嫌が良さそうなのを感じ取って、今度また別のデザインのものを買ってやろうと思った。
「ボス」
「何だ?」
「お疲れ様です!」
「・・・あぁ」
コーヒーの芳香が口内に広がる。揺らぐことなく真っ直ぐ自分を見つめてくる瞳に、ザンザスは緩やかに目を細めた。