しゅるり、とトイレットペーパーを取り出した赤ん坊が、思い切り鼻をかむ。誰一人笑わないのは、見慣れたせいというよりも、この状況のせいだ。
「ム・・・。ノイズが入ったよ」
「ノイズ?」
「どうやら術師がいるようだね。まぁ、居場所の特定には問題ないよ」
「どこにいる」
「任務地にいるよ。・・・おそらく、敵の術中に」
執務室の空気が緊張を増す。ザンザスは溢れ出しそうな何かを押さえ込むかのように、目を閉じて深く息を吐いた。
偵察に行かせたと連絡が取れなくなったのは今朝のことだ。予め決めておいた時間になっても連絡は無く、こちらから連絡しようにも繋がらない。夜になって、ザンザスは執務室に幹部を招集した。
顔の前で手を組み、じっと考え事をしている様子だったザンザスは、静かに目を開けた。そして目の前に並ぶ幹部たちを見渡す。
「レヴィ。本部からのオーダーは敵の壊滅だったな」
「はい」
「・・・出る。すぐ支度を整えろ」
さっと幹部たちは執務室を後にする。幹部全員で出ることは当初の予定通りだが、一つ予定外だったのはがいないおかげでザンザスの怒気が高まったことだ。敵さんご愁傷様ァ、と楽しそうに呟いたベルに、幹部たちは心の中で同意した。
が偵察に向かったのは、本部から壊滅させるよう指令を受けた敵対ファミリーの本部だった。気配を殺して様子を伺うと、豪華な屋敷の前には大きな門が立ちはだかり、門番が数人立っている。まだ寝る時間には早いせいか、建物には煌々と明かりが点いている。中ではまだ構成員がうろうろとしていることだろう。
そんな時間にしかも正面突破を仕掛けるなど、うちのボスは相当お怒りだと幹部たちは思ったが、しかし楽しめそうだと思っていることも事実だった。暗殺部隊とはいえ基本的に派手に闘うのが好きな連中ばかりなのだ。のことは多少気がかりだが、しかしザンザスが来たのだから自分たちが心配する必要はないだろう、と妙な安心感もあったりする。
「マーモン、の位置を特定できるか」
「いいよ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・7階、西側の突き当たり。多分ボスの部屋だね」
鋭い眼差しがそのあたりの部屋に固定された。殺気は抑えられているが、その目からはどう見ても殺意しか感じ取れない。
「敵は殲滅しろ。ベル、マーモン、てめぇらはまず術師を消せ」
「「了解」」
「ボスさんはどうすんだぁ?」
「決まってんだろ。頭を獲る」
「護衛はいらない?」
「いらねぇ」
ザンザスの目は部屋から離れない。ルッスーリアは苦笑を浮かべた。これ以上無駄話をしようものなら消されそうだ。
「・・・行くぞ」
ひときわ押さえられたザンザスの声を合図に、彼らは屋敷へ向かって飛び込んだ。
非常警報がやかましく鳴り響く。そんなものお構い無しに、ザンザスは敵を倒しながらひたすら上の階へと上っていった。たどり着いた目的の部屋はやはりボスの部屋だったようだ。扉の前にいた護衛たちは現れたザンザスに向かって発砲してくる。しかしザンザスは弾を躱して一気に間合いを詰めると、数人を薙ぎ倒し、最後に1人残った護衛ごと扉を蹴破った。扉が破壊される音、そして蹴り飛ばされた護衛が床に叩きつけられる音。大きな音だったが、それも屋敷中に響き渡る騒音に掻き消されていった。幹部たちが相当暴れているようだ。
派手に室内へと侵入したザンザスを、中にいた男、このファミリーのボスは余裕に満ちた面持ちで迎えた。男は肩を抱いたのこめかみに銃を突きつけ、窓際に立っていた。はやはり意識を奪われているらしく、立ってはいるがその目は虚ろだ。どこか一点を見つめているようで何も見てはいないのだろう。ザンザスが現れても何の反応も示さない。そんな様子に、ぎり、と奥歯を噛み締めた。
「まさか君直々のお出ましとはね、ザンザス君」
男とは以前パーティーで顔を合わせたことがあった。直感で敵だと判断したが。
ザンザスは男を睨み付けた。押さえる必要もない殺気や怒気といったものは溢れ出し、全て目の前の男へと向けられる。男は怯んだ様子を見せたが、しかしさすがはボスというべきか、それとも人質をとっているせいか、余裕の笑みは崩さなかった。
「汚ぇ手でうちの部下に触んじゃねぇよ」
腰に手を回したザンザスは、2丁の銃を取り出すと同時にセーフティを外し、男へと銃口を向けた。
「おっと、今は私の部下だよ。そうだろう、?」
その声に合わせ、が銃を握った手を持ち上げた。震える銃口がザンザスに向けられる。
(・・・冗談じゃねぇぞてめぇ)
今ザンザスが撃てば、男はを撃つだろう。そうされないよう一撃で仕留められればいいが、男はを盾にしていて急所は狙えない。ごと撃つ、ということも考えたが、体は正直なもので、銃を握る両手は動いてくれそうにもない。苦々しく顔を歪めたザンザスに、男はさらに余裕を見せた。
「彼女が大事ならそこでじっとしていたまえ。私がこの部屋から出るまで、ね」
逃げるつもりらしい男はを抱えたままじりじりと右の壁際へと寄っていった。向かう先には扉がある。男への注意を逸らさずにその扉を伺うと、横に小さなボタンがついているのに気づいた。
そこまで移動した男は、手を伸ばしてボタンを押した。左右に扉が開く。エレベーターだ。私室にそんなものを設置しているとは用意周到なことだ。
「彼女は私の護衛として連れていくよ」
チッ、と舌打ちしたザンザスに腹の立つ笑みを残して、男はエレベーターに乗り込んだ。二人の姿が中に隠れ、扉が閉まり始める。
護衛として連れて行く、だと?・・・ふざけるな、誰の女だと思ってやがる。
(行かせるかよ)
扉が半分ほど閉まったとき、ザンザスは思い切り床を蹴った。片手を伸ばして銃身を今にも閉じそうな扉の間に挟ませる。できた隙間にさらにもう一方の銃身もねじ込みながら、その先に見えた男の胸へと、迷わず引き金を引いた。
「ぐあっ!」
呻きとともに男が崩れ落ちる。その間に突っ込んだ2丁の銃身で扉を開き、素早く中へ体を滑り込ませた。
扉が閉まると同時、外部から遮断された空間に銃声が響いた。
「・・・」
頬にひりっと痛みを感じる。銃弾が掠めたのだろう。無表情のまま銃を構えるを見れば、銃口はやはり震えていた。そうでなければ、こんなエレベーター内という至近距離でが狙いを外すわけがない。
「」
エレベーターが動き出す。呼びかけると、ぴくり、との体が反応を見せた。操られた状態でも微かに意識が残っているようだ。しかし体は言うことを聞かないらしく、再び銃口がザンザスを捉える。今度は外さないよう、きつく額に押し当てて。ごり、と硬く冷たい感触がした。
「・・・分からねぇのか、俺が」
問いかけながらザンザスは両手の銃をに向ける。しかし自分が先に引き金を引くことはないと心のどこかで感じていた。死ぬわけにはいかない、が、殺すこともできない。先に撃たれるのは確実だな、と嫌な自信があった。しかしまぁ、の手にかかるなら悪くない、か?
(・・・重症だな)
いざとなれば幹部だって見殺しにできるくらいの非情さは持ち合わせているつもりだった。その自分がまさか、女一人殺せないとは。欲しいという欲求と失いたくないという固執は表裏一体なのだろうか。に対しひどい執着心を持っていると自覚はあった。このままではそのうち狂気を帯びるかもしれない。・・・生きていれば。
「撃てよ。道連れにしてやる」
果たして額を撃ち抜かれてそんな力が残っているだろうか。分からないが、そうでもしなければ死んでも死にきれない。自分が死ぬなら道連れだ。
かたかたと震えるのが額に伝わってくる。の頭の中できっと正常な意識が抵抗しているのだろう。精神的に相当なダメージを受けているに違いない。
お互い銃を向け合ったまま対峙していると、ふ、と震えが小さくなった。意識が薄れたのだろうか。いよいよ撃たれる、とザンザスは思った。
「・・・ボス、」
「!」
予想は外れた。突然小さく呟いたかと思うと、虚ろだった目に光が戻り、ザンザスを映す。
「、」
しかし、すぐにその目は閉じられた。押し当てられていた銃が床に落ちる。はっと銃を離したザンザスが両腕を開くと、力の抜けきった体がぐらりと倒れこんできた。腕の確かな重みに、切ないような、込み上げてくる何かを感じる。
「・・・てめぇ、帰ったら覚悟しろよ」
がくん、と軽い衝撃が来た。エレベーターが1階に着いたようだ。
屋敷に火の手が上がったのは、それから間もなくのことだった。
「脳が疲弊しているからね。しばらく起きないと思うよ」
部屋に様子を見に来てみれば、幹部が揃ってのベッドを取り囲んでいた。どこにそんな暇があると言いかけて、その言葉はそっくりそのまま自分に返ってくる言葉だと気づき口を噤む。
「・・・散れ」
結局、口から出たのはそんな言葉だった。しかし幹部たちもそれは予測していたようで、文句の一つも言わずに腰を上げる。
「失礼します」
「無理に起こすなよぉ」
「ごゆっくりー」
「襲っちゃだめよぉ?」
口々に言いながら横を通り過ぎていく幹部たちを鬱陶しそうに見送って、ようやくザンザスはベッドの淵に腰を下ろした。すやすやと眠るはまるで何事も無かったかのようだ。そっと頬に手を添えた。
(てめぇは、俺のもんだ)
男に肩を抱かれていた、その姿を思い出すだけで苛々する。
欲しいのだと伝えた。もそれを受け入れたはずだ。・・・なのに、いつまで経っても手に入れた気がしない。どうすればいいのだろう。喰らい尽くしてみるか?縛り付けて閉じ込めてみるか?それともいっそこの手で、・・・。
頬に添えていたはずの手が首にかかっていたことに気づき、ザンザスは驚いて手を離した。殺せないと知ったばかりだというのに、これは一体?
「・・・はっ」
自嘲的な笑みが浮かぶ。簡単なことだ。手に入れるため、その目的さえ掲げれば何だって出来る、それだけのこと。
(気をつけろよ、)
身を乗り出したザンザスは、眠るの唇にそっと自分のそれを重ね合わせた。
(・・・お前が思ってる以上に、俺は、)
体の中に猛獣を飼っているような気分だ。ここから出せと激しく暴れるそれを、いつまで檻の中に閉じ込めておけるだろう。おそらくもう限界に近い。早くなだめてくれ、檻が壊れてしまう前に。
鼻先を摺り寄せて、唇で首筋を辿る。規則正しく脈打つ部分を見つけ、その上をきつく吸い上げた。白い肌に赤い痕が残ったのを確認すると、少し落ち着いたような気分になる。
狂気は思いのほか近くにあった。