六月の花嫁

こんなハンドルの軽さは知らない。少しでも気を抜けば道路の外に飛び出しそうだ。

「ししっ、レースみてぇ!」

・・・あ゛ぁ、俺もそう思うぜぇ王子様。

ルームミラー越しに後ろを伺うとベルは窓の外を見ているようだった。この暗い中で見えるものといったら追い越した他の車くらいだが、それすらあっという間にはるか後方へと消えていく。尋常じゃない速さで。

あえて見ないようにしていたメーターを視界の端に入れようとして、数字を認識する前にやめた。針が見たこともない位置にあったからだ。どの車も夜間で速度感覚が鈍り、制限速度なんてとっくに越えてるのが普通だが、そんな奴らを遅いと感じてこうして何台も抜き去っているのだから、既に相当スピードが出ているのは分かっていた。だがやはりメーターは見ない方が正解だったかもしれない。アクセルを踏む足が浮きそうになってしまった。

そもそもこんなに急ぐことになったのは後ろのベルのせいだ。俺は今日中に行く、───違う、帰ると約束したんだ、あいつに。

一緒に暮らし始める、その当日に急な任務が入った。麻薬を流した奴らの孅滅だと聞いたが理由なんてどうでもいい、ぶった斬って終わりだ。この仕事には迅速さが求められるからと、4人で行けと命じられたのは幸いだった。一人じゃ今日中には終わらなかったはずだ。

とにかく急いで仕事を終え、取ってあったホテルに向かい、シャワーと着替えを済ませて車に飛び乗った。ルッスーリアとレヴィは泊まって帰ると言ったが、ベルだけは屋敷まで送れと言って後部座席に転がり込んできた。ちったぁ気ぃ遣え、・・・とは一応言ってみただけだ。この王子様に通じないことくらい知っている。

「でさぁ、家ってどこにあんの?」

「さぁなぁ」

ベルが声を掛けてきたのはだいぶ屋敷に近づいてからだった。このあたりの道はもうほとんど車は通らないし、さっきのままの速度で走れるほど広い直線道路でもないから暇になったのだろう。俺も応える余裕が出来た。

「そこって元はボスの別邸の一つなんだろ?」

・・・そう、あのマンションの最上階、1フロア全てボスが持っていたものだ。二人で暮らすと報告に行ったとき、新居はこれから探すと言ったら、いらねぇのがあるからと言って簡単に譲ってくれた。というか、”いらねぇの”の中から選ばせてくれた。御曹司はそういう使ったことのない別邸をやたら持っているらしい。

「いいじゃん、教えてくれたって」

「ろくなことにならねーから断るぞぉ」

「・・・ふーん、そういうこと言うんだ」

含みのある声が聞こえて背筋が寒くなった。こんなときは・・・そうだ、早々に会話を打ち切るべきだ。

「おら着いたぜぇ!とっとと降りろぉ!」

屋敷のエントランスが見えてついアクセルを踏み込んでしまった。思い切りハンドルを切って門の前に運んだ車を今度はブレーキを踏み込んで止める。と同時に叫べば、案外すんなりとベルは車を降りてくれた。

「じゃーなスクアーロ、そのうちボスと遊びに行くから」

「来んなぁ!」

ししし、と歯を見せて踵を返すベル。あまりいい予感はしないが・・・まぁいい、これでやっと帰れる。

地下駐車場に車を止め、マンションの中へ。エレベーターを待てずに階段を駆け上がった。最上階?そんなこと気になるようじゃヴァリアーになどいられない。

気のせいか鼓動が速い。階段のせいじゃない、目の前のドアのせいだ。手を伸ばし、チャイムを鳴らす。待ち構えていたように奥から気配が近づいてきて、カチャン、とドアノブを回す音。無用心だ、鍵くらい掛けておけと言ってやらなければ。

「おかえりなさい!」

・・・言ってやらなければ、と思っていたが、一瞬で吹き飛んだ。お前のせいだ、そんな顔で出迎えるから。

「・・・帰ったぜぇ」

ああ、きっと今、俺の顔はこいつに負けないくらい緩んでる。たまらず抱き締めると、中から鐘の音が聞こえ始めた。1回、2回、3回。あと9回。

・・・せめて鳴り終わるまではこうしていよう。でなきゃこの顔は元に戻りそうもない。

最終話:零時の鐘が始まりを告げる

(2007.06.26) 時計、0時って12回鳴りましたっけ?もしや0回?(笑)